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はっと汁の由来

海老紋
藩政時代のこと、登米地方は伊達藩でも有数の米どころでした。伊達藩では班をあげて北上川水系の改善と湿地の新田開発に取り組み、江戸への産米輸送に力を注いでいました。
当時、伊達藩では「買米制」という制度を作り、お百姓さんが年貢を納めたあとの余ったお米も藩が買い上げて江戸へ送っていたのです。このため、米どころであってもお百姓さんは満足にお米を食べることができませんでした。「百姓食物常々雑穀ヲ可用食之事(お米を食わず雑穀を食うべし)」という「百姓法度」が出されるほどでした。
こうした中、お米を満足に食べられなかったお百姓さんは、麦飯(二番米、三番米に大麦を混ぜたごはん)の他、畑で作った小麦を粉にして練ってゆで上げ「はっと」として食べていました。当初「はっと」はお米の代用食でしたが、長年のお百姓さんの知恵でよりおいしい食べ物へと工夫されていったのです。
しかし、当時の大名が「こんな美味しいもの(はっと)を農民に食べさせるのは、ご法度だ!」と禁止したことから「ご法度」=「はっと」と呼ばれるようになったという説があります。
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